岐阜まちなか歩き

齬史は変わる「信長公居館跡」
'13/05/13


 
織田信長公は1567年に現在の岐阜市に入られた、本拠地を愛知県の小牧市にある小牧山城より岐阜城に移しました。
お城と言うのを思い浮かべますと、江戸城のようにそこに城主が住んで奥には大奥などがあると思いがちですが、岐阜城の城の部分は居住地ではありません。
岐阜城というのは金華山全体を言い、居住地は金華山の麓です。

織田信長公が住んでいた、居住区域でもあるし政を行う役所機能の区域でもありました。
発掘調査が昭和59年より始まり現在も進行中です。

ルイスフロイスが書き残したものに、信長公の居館を現すのに宮殿とあり、4階建ての建物があったとあります。
ロープウェーの横辺り千畳敷と呼ばれる所にあったとされてましたが、木造居住建築物としてはその当時の技術では考えにくいです。
発掘が進み今では、金華山の斜面を利用した4階建てと言うことが分かってきました。

発掘が進むに連れて、池の跡が多数見つかっています、水を張った池や枯山水などがありますが、ルイスフロイスが書いたもの中にも茶の座敷があったとされていて、建物から見る庭園が数あった事が分かってきました。
信長公が岐阜に入ってから天下布武の朱印を使い始めました、「天下布武」武力を持って天下を治めると思われる方が見えると思います。

天下布武の意味は、七徳の武を持って天下を治めるという意味です。
七徳の武とは、暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにするでそれらをすべて兼ね揃えた者が天下を治めるのに相応しいと言うことです。
天下布武の「武」の意味には、鉾を止めると言うことがあり武力を使わないこともあります。

信長公居館には前記しましたとおり、庭園が数あって室町幕府の京都にあった銀閣寺の様式に似たものもあったとされています。
それは、お客様を迎えおもてなしをする所だったと思えます、居城は権威を現すこともあってこれだけ凄い物があることを見せて、刃向かっても無駄だことも含めての迎賓館だったのではないでしょうか。

巨石などを使い始めたのが、道三公・信長公の時代からだと言われてます。
公園側から居館跡に入ると両側に巨石が並んでいて通路になっています、ところどころちょこっと色が違うのがあります(説明版を見ると分かりやすいです)岐阜城が廃城になって加納城築城に使うため持って行かれて、ここを整備する時改め入れたためです。
それとそこから上に行くと、ここでは一番大きな石があります、これも石組されたものです、石はどこから持ってきたかというとハッキリ分かっていません。
ただ、金華山は石の山ですチャートと言われているもので、金華山の石を使っているのですが石切場がどこかは分かってません。

現在の地盤面は信長公の時代より高いです、またその下は道三公の時代の物があります。
掘ってみると焼けた層が出てきます、昔は焼き払ってその上に盛り土をして次の物を建てたと言うことです。
よって、巨石も本当はもっと出ていて大きい感じを受けるはずなのですが、そこは現地に行かれたら想像してください。

特殊な所で、石積みの角の所「入角と出角」と言われている所ですが、その跡が居館跡にもあります。
石積みを曲げることは技術がいることで、石垣の遺構としては初源的な物だそうです。

金箔瓦が見つかり、安土より前で城郭としては最古の物だと言われています。
巨石積みも信長公が岐阜に来る前の小牧山から見つかったと言われてます。
このように発掘などが進み解明されていくと、歴史は変わっていきます。

信長公居館跡の発掘は未だ続いていて、新しい物が出てくるのが楽しみですね。
※取材時と内容が変更になっている場合がありますので、お出掛けの前に、詳細は電話にてご確認ください。

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