岐阜まちなか歩き

鼕阜が誇る世界的偉人
'17/09/17


 
杉原千畝記念館では杉原千畝の出身は八百津生まれとなっています。
しかし、最近の調べでは、岐阜県武儀郡上有知町(こうずちちょう、現在の美濃市)に生まれるとなっています。

杉原千畝は1900年(明治33年)に生まれ、父の仕事の関係で岐阜県・福井県・三重県・愛知県で幼年期少年期を過ごします。
旧制愛知県立第五中学(現・愛知県立瑞陵高等学校)に入学し同校卒業後、当時日本統治下の朝鮮の京城に赴任していた父は、千畝が京城医学専門学校(現・ソウル大学校医科大学)に進学して医師になることを望んでいました。
しかし、医師になるのが嫌だった千畝は父の意に反して、1918年(大正7年)4月に早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学しました。

1919年(大正8年)10月に日露協会学校(後のハルビン学院)に入学して、その11月には早稲田大学を中退してしまいます、外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、ロシア語を学ぶ事となります。
ここから外交官に関連する道を進んでいくことになります。

1920年(大正9年)12月から1922年(大正11年)3月まで朝鮮に駐屯の陸軍歩兵第79連隊に一年志願兵として入営し、その後日露協会学校特修科修了して特にロシア語は非常に堪能になりました。
1924年(大正13年)に外務省書記生として採用され、日露協会学校・ハルビン大使館二等通訳官などを経て、1932年(昭和7年)に満洲国外交部事務官にに就きました。

1932年(昭和7年)3月に満洲国の建国が宣言され、ハルビンの日本総領事館にいた千畝は、上司の総領事の要請で満洲国政府の外交部に出向しました。
1933年(昭和8年)、満洲国外交部では政務局ロシア科長兼計画科長としてソ連との北満洲鉄道(東清鉄道)譲渡交渉を担当しました。
鉄道及び付帯施設の周到な調査をソ連側に提示して、ソ連側当初要求額の6億2500万円を1億4000万円にまで値下げさせ、ソ連側の提示額は当時の日本の国家予算の一割強に値するものであり、杉原による有利な譲渡協定の締結は大きな外交的勝利でした。
この場面は、ドラマや映画で必ず出てきますね。

1937年(昭和12年)にはフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任しました。
当初、念願であった在モスクワ大使館に赴任する予定であったが、ソ連側が反革命的な白系ロシア人との親交を理由に千畝の赴任を拒絶したそうです。

1939年(昭和14年)にはリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となり、リトアニアで生活を開始しました、8月28日にカウナスに着任直後の9月1日にナチスドイツがポーランド西部に侵攻し第二次世界大戦がはじまりました。

日本人が全く居ないカウナスに千畝が赴任してきたことに驚いて興味を持った地元紙は、早速領事館に取材を申し込み、「日本はどんな国」という見出しで特集を組んだそうです。
千畝一家の写真付きで紹介された特集記事で、「日本では各家庭に風呂があって、毎日入浴するっていうのは本当?」「日本の女性の家庭での地位は?」といった質問に千畝は一つ一つ生真面目に答えたそうです。
ステポナス・カイリースの日本論以来のちょっとした日本ブームを引き起こしたそうです。

そして、ユダヤ人迫害が始まり命のビザにつながります。

名鉄明智駅よりバスで八百津ファミリーセンターまで約25分、そこから人道の丘バス停まで約10分です。
土日には無料シャトルタクシーがファミリーセンターから出ているそうです。
※取材時と内容が変更になっている場合がありますので、お出掛けの前に、詳細は電話にてご確認ください。

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