岐阜まちなか歩き

齧スのビザ
'17/09/29


 
人道の丘公園(じんどうのおかこうえん)は、岐阜県加茂郡八百津町にある公園、命名は梶原拓岐阜県知事(当時)がつけました。
「命のビザ」で知られる元外交官の杉原千畝の人道的功績を讃えるために作られました。
公園はメモリアルゾーン・アクセスゾーン・カルチャーゾーン・アミューズゾーンの4つの区域と杉原千畝記念館があります。

命のビザモニュメント、園内の八百津一望の丘にあるモニュメントで、積み重ねたビザをイメージした形となっています。
真実を見つめ、千畝が書き続けた幾枚もの命のビザを重ね、希望の光りを反射させながら空へとのびていくモニュメントです。
千畝が教えてくれた人間愛の心が響くように、訪れる一人ひとりの手で平和への鐘を世界へ、そして次世代に向かって奏でて行きます。

命のビザ、1940年リトアニア領事代理だった杉原千畝が外務省の訓令に反して発給した日本通過ビザのことです。
推計6千人のユダヤ人がナチス・ドイツの迫害を逃れることができたとされてます、シベリア鉄道でウラジオストクを経由して日本海を渡った難民らは、神戸や横浜から米国などに逃れました。

ナチス・ドイツに迫害されていたポーランドのユダヤ人は、スイスと同じように中立国と思われていたリトアニアに移住してたが、1940年7月15日親ソ政権が樹立され、ソ連がリトアニアを併合することが確実となりました。
リトアニアがソ連邦下になれば、ユダヤ人たちは国外に出る自由は奪われてしまう。
ヒトラーの戦略から、いずれは独ソの戦いが始まることも視野にいれると、ソ連に併合される前にリトアニアを脱出しなければ、逃亡の経路は断たれてしまうとユダヤ人たちは予感していました、もはや一刻を争う状態でありました。

近辺各国がドイツの手に落ちていたので、ユダヤ人の逃亡手段は日本の通過ビザを取得し、そこから第三国へ出国するという経路しか残されていませんでした。
日本の通過するビザを取るには受入国のビザが必要でした。
各国領事の中で唯一ユダヤ人に同情的だったオランダ名誉領事ヤン・ツバルテンディクでした。
彼はカリブ海に浮かぶオランダ植民地キュラソー島なら、税関もないので入国できるということに目をつけ、キュラソー行きのビザの発給を決断しました。
そのキュラソー・ビザを持ってユダヤ人が日本領事館に押し掛けて来ました。

集まってきたのは1940年7月18日(木)の午前6時、ユダヤ人代表を選び領事館で話し合いをしました。
その午後外務大臣に判断を仰ぐ電報を打って判断を仰ぐことにしました。
外務省よりの回答は「ビザ発給拒否」、再度電報を打つもの7月24日(水)の2回目の回答も同様でした、千畝は一晩中ビザを発給するかどうか悩む事となりました。

しかし千畝は、通過ビザ発給をしました。
8月2日(金)に外務省より領事館退去命令出ました。
8月3日(土)リトアニア、ソ連に併合され14番目の共和国となるこの日以降、日本国及びソ連政府からも再々の領事館退去命令があったが、これをを無視してビザを書き続けました。

9月5日(木)千畝一家ベルリンへ向かうため、カウナス駅へ向かいました、ホームでも日本の入国許可証を求めるユダヤ人に渡航証明書を発給し続けるました。
外務省保管の杉原リストには2139人の名前が記されています。
その家族や公式記録からは漏れている人を合わせると、杉原が助けたユダヤ人は6000人とも8000人とも言われています。

これが命のビザです。
場所は杉原千畝記念館前やその道路沿いです。
※取材時と内容が変更になっている場合がありますので、お出掛けの前に、詳細は電話にてご確認ください。

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