岐阜まちなか歩き

齣蝠ァを廻って羽島へ
'13/12/27


 
大仏として岐阜大仏・蜂屋大仏と廻って来ましたが、今回は羽島市にある佐吉大仏です。
この大仏は、永田佐吉によって1759年に建立されました、岐阜大仏が1832年なのでそれより古い事になります。

青銅の釈迦牟尼仏で、仏像の高さは石の台座を含め全体で5mほど、台座の周りはおよそ8.3mです。
作は江戸の鋳物師 西村和泉守藤原政時によるものです。

永田佐吉(ながたさきち)とはどのような人物かと言うと、元禄14年(1701年)に生まれ寛政元年(1789年)に人間の善意を信じきって89歳の生涯を閉じた、美濃国羽栗郡竹ヶ鼻村(現岐阜県羽島市)出身の豪商、人徳者でした。
佐吉は慈悲の精神、至高の親孝行、自分の名前を出さないで行う数々の社会奉仕等で仏佐吉と呼ばれ、地域の尊敬を集めました。
また美濃聖人としても称えられ戦前の小学校の教科書に採用され、恩を忘れるなの徳目で日本中に教えられました。
二宮金次郎と並んで戦前は教科書にも必ず載っていた人物だったんですが、戦後になって戦中戦前の国民教育が変わり、そのあおりを受けて教科書から消えいつしか地元でも忘れられた存在になってしまったのでした。
佐吉は綿の仲買人として仕事を始めます、商いに当たってはお客を信用し相手の言いなりで取引行いました、その結果豊かになりますが質素倹約勉め、多くのお金を石橋や道標の設置等の公益に使いました。

大仏を作ったのは母の代わりに諸国巡礼の旅に出て、その先で大病にかかった佐吉が、神仏に祈り全快したことを戻って来て母に話し、仏様に対する感謝の気持ちとして建立したものです。

現在のものは2体目にあたると言われています、最初の大仏は発注先の江戸から桑名へ運ばれる途中、強い風波を受け船ごと海に沈んでしまいました。佐吉翁は、沈んだ大仏が船人を守ってくれるだろうと、引き上げることはせず新たにもう一体の大仏を発注し、それが現在の佐吉大仏となったそうです。

なお、当時の本尊の大仏にはお堂が設けられ、お寺の様式を整えていました。また、現在のお堂は明治24年(1891)の濃尾震災で焼失したのを昭和37年(1962)再建したものです。

大仏殿に入ると中央に佐吉大仏が置かれ、周りには資料があります、永田佐吉についての資料も数多く展示されています。

佐吉大仏の場所は、名鉄羽島市役所前駅より東へすぐです、駅より歩き大仏公園がありその横の体育館みたいな建物の中です。
大仏公園には、仏佐吉彰徳碑があります。
佐吉の墓が、ここより北にある、本覚寺にあります。

岐阜県指定史跡であり、別名竹鼻大仏と呼ばれることもあり。
※取材時と内容が変更になっている場合がありますので、お出掛けの前に、詳細は電話にてご確認ください。

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