岐阜まちなか歩き

黷アんな所にこの方の墓が
'16/07/26


 
岐阜市の東部、琴塚古墳があります、この辺りから各務原市にかけて古墳群となっています。
各務原市には金幣社5社めぐりなるものがあり、その1社に加佐美神社があります、その東に境川をはさんで市林山という小山があります。

市林山の頂上には平安時代の中期(938年〜960年ごろ)に編さんされた美濃国神名帳に従五位下市隼明神(じゅごいのげいちはやみょうじん)と記載された神社が祭られていたとされています。
また、明治14年に作成された「美濃国各務原近傍実測図」には市隼雄命陵但古市場村東方外山西麓(後略) 」という表題の写生図が掲載されています。

市林山には、その後明治37年に岐阜市美園町の橿森神社の氏子によって「市隼雄命墳墓」と刻まれた石碑が建立されました。
橿森神社は市隼雄命を祭神とする神社で、織田信長が岐阜に楽市楽座を開いたときに、 その市神を橿森神社の神木の下に祭ったといわれる神社です。
(各務原市広報参考)

市隼雄命、垂仁天皇の第一皇子である五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)と景行天皇の第六皇女淳熨斗媛命(ぬのしひめのみこと)の間の子です。
五十瓊敷入彦命は岐阜市にある伊奈波神社の主祭神、淳熨斗媛命は岐阜市にある金神社の主祭神です。
市隼雄命は岐阜市にある橿森神社の主祭神です。
この三社を回るのが三社参りと言われています。

市隼雄命は景行天皇の命により五十瓊敷入彦命と共に、奥州にある金石を都に運ぶため向かいました。
幾度も金石を都へと勅使を派遣しましたが、失敗に終わり天皇の兄に当たる五十瓊敷入彦命までもが派遣されました。

五十瓊敷入彦命は金石を奥州より持ち出すことに成功しましたが、そのことを恨んでいるものが居り誰も出来なかったことが出来たのは、奥州の者と結託し謀反を起こそうとしていると天皇に嘘を吹き込もました。
そのため五十瓊敷入彦命・市隼雄命は朝敵となり、美濃の国厚見県平田川(長良川の一部)まで金石を運んだところで戦いになりました。

五十瓊敷入彦命の軍は500の兵官軍は10万の兵で、朝廷方の大将を討つことは出来たが多勢に勝ち目はなく劣勢でした。
五十瓊敷入彦命はこれ以上命を無駄に出来ないと天を仰ぎ、天照大神に祈りました、そうすると川は大洪水になり金石は爆発し大きな山になりました。
天変地異で景色が一変し官軍は戦う気力を失い都に戻っていきました。

五十瓊敷入彦命・市隼雄命は金石から出来た山に消えて行きました。

このような物語がありますが、市隼雄命の墓がここにあるのは不明です。
金石が山になったのが、因幡山のちの金華山です。
※取材時と内容が変更になっている場合がありますので、お出掛けの前に、詳細は電話にてご確認ください。

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