岐阜まちなか歩き

齡シ兵衛がいたから官兵衛がいた
'16/03/28


 
ここは半兵衛の息子で、関ケ原の戦いにも参戦した竹中重門が築いた陣屋跡です。
現存する木造白壁塗りの楼門や頑丈な門扉・石垣・濠などが当時の面影をとどめています。

竹中半兵衛重治公没後嫡男の重門が菩提山城廃して構えた陣屋の正面です。
東側が正面で、大手の間口六間、奥行三間木造りの白壁塗の櫓門となっています。
門の西側に1636坪にわたる陣屋が形成されていました。

櫓門は明治新政府による学制発布により、明治14年に現在の岩手小学校の前身である菁莪義校の正門として位置づけられていた。
城の門が学校の門となっているのは、全国的にも希で貴重な史跡となっています。

竹中半兵衛とは竹中重治(たけなかしげはる)、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で初名は重虎、のちに重治、半兵衛は通称です。
戦国時代を代表する軍師としても知られ、織田氏の家臣である羽柴秀吉の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに両兵衛・二兵衛と称されました。
しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、史実上の実像が不明瞭な人物であります。

半兵衛の主君・稲葉山城(のちの岐阜城)の斎藤龍興は、織田信長から何度も攻め込まれるという不安な状況にあっても、政務を顧みずに遊び放題に堕落していました。
信長の侵攻があるたび半兵衛の知略により切り抜けるものの、城の士気は下がる一方でした。
そんな主君の姿を見て半兵衛は一計をめぐらせ、1564年、たった16〜17人の部下とともに主君の居城・稲葉山城をわずか1日で乗っ取ってしまいます。

難関不落と言われた稲葉山城をわずかの兵を奪取した半兵衛は、名実ともに稲葉山城主となり美濃に半兵衛ありと、その名を全国に広めました。
そして織田信長は、美濃半国を与えるから城を譲ってくれと、半兵衛に申し入れます。
しかし半兵衛は、主君の行動を諫めるために決行しただけであり、その後主君に城を返すしました。

先の件より半兵衛の頭脳に目をつけていた信長は、隠棲していた半兵衛を家臣にしたいと考え、木下藤吉郎(豊臣秀吉)に半兵衛を説得するよう命じます。
藤吉郎は、「三顧の礼」を尽くして半兵衛を説得したと言われ、このとき藤吉郎の中に天性の才能と将来性を見た半兵衛は信長にではなく貴方にならと、のちの豊臣秀吉への仕官を決めました。
城の件などをみると、半兵衛は信長には付きたくなかったみたいですね。

垂井駅より北西車で10分くらいです。
※取材時と内容が変更になっている場合がありますので、お出掛けの前に、詳細は電話にてご確認ください。

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