岐阜まちなか歩き

鼾]の手紙から
'15/09/29


 
後背山栄昌院、臨済宗妙心寺派の寺院です。

栄昌院は、織田信長公の妹であるお市の方と浅井長政との間に生まれた三姉妹(茶々・初・江)のうち、次女の常高院(初)の菩提寺です。
初は、近江の名門で若狭国(福井県)小浜城主となった京極高次に嫁ぎました。
寛永十年(1633)に江戸で亡くなり、法名を常高寺殿松厳栄昌大姉といいます。

常高院の没後、その側近く仕えた侍女七人が小浜にそれぞれ寺庵を結び、全体を栄昌院と号して、常高院の菩提をとむらいつづけました。
明治維新をむかえたとき、尼僧たちは小浜から京極家の領地であった丸亀(香川県)に移りました。

しかし、明治初期に京極家が祭祀を仏式から神式に改めたため、常高院の位牌とともに尼僧が美濃国方県郡佐野村(岐阜市)へ来住し、栄昌院を復興したのです。
境内には常高院の供養塔とともに、寺を守ってきた歴代の尼僧たちの供養塔が建っています。

と言う寺院ですが、注目を浴びるようになってきたのは大河ドラマによってです。
大河ドラマ「江 〜姫たちの戦国〜」が話題になりました、その時この寺院から初より江に宛てた手紙が出てきたからです。

手紙は2通ありました。
内容は、江から常高院(初)への返事で、江の娘である女御(のちの東福門院)に常高院が使者を送ったことへの礼と、来年は江戸で会えることの楽しみを述べ、常高院の中風の具合を気遣っている手紙です。
もう1通は、お江から常高院への返事、将軍(家光)が北の丸(忠長邸)へ御成になったことの喜び、大御所(秀忠)への手紙を取り次ぐこと、このたびもらった祝儀の肴の礼と、たびたびの祝儀の礼を重ねて述べる」という内容の手紙です。
手紙の内容は、元岐阜市歴史博物館・学芸員筧真理子さん要約です。
その手紙は現在、岐阜市歴史博物館に所蔵されています。

岐阜市北部にあるこの寺院、訪ねますと寺院というより普通の民家です。
訪ねにくい感じはありますが、伺った方の話では丁寧に対応して下さったそうです。

裏の山を登って行くと、初の供養碑があります。

場所はわかりにくいと思います、バスで伊自良四ツ辻下車後徒歩約30分です。
※取材時と内容が変更になっている場合がありますので、お出掛けの前に、詳細は電話にてご確認ください。

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