岐阜まちなか歩き

齡濃・尾張・伊勢3ヶ国の守護の居城
'15/06/29


 
川手城(革手城)の由来として、美濃源氏は平安末期から鎌倉時代にかけて、美濃各地に土着した清和源氏の一族であります。
なかでも光衡は、源頼朝に従って軍功を挙げ、東美濃の地土岐に土着し土岐氏と名を改め、現在の瑞浪市一日市場に居住し屋敷に源氏の守り神八幡神社を祀りました。
美濃国守護職(1189)となって鎌倉幕府とともに栄、土岐源氏の祖となりました。

光衡の子光行は、源実朝に仕え池田親九郎追討の軍功(1216)をあげ左衛門尉となりました、土岐市浅野のに住み東美濃を統一しました。
その子光定は、土岐惣領を継ぎ土岐市浅野に住み執権北条貞時の娘を妻にして、隠岐守となり土岐氏隆盛の基となる。

土岐中興の祖となる土岐頼貞は、光定の子、母は北条貞時の女で執権北条高時の兄妹、土岐惣領を継いだ頼貞は文武に秀で人物豊かで元弘の変(1333)に後醍醐天皇の令旨に応じ、足利尊氏と共に鎌倉幕府打倒に功を挙げた。
その後、建武新政の不満に兵を挙げた足利尊氏に従い数多くの軍功「土岐絶えば幕府絶ゆべし」「諸家の頭、筆頭の頭」と信頼を深くし、西美濃をも治めて美濃国守護の地位を築き、現瑞浪市一日市場、現土岐市大富にその居館を構え、11代続く守護職の初代となる。

第2代守護職土岐頼遠は、父頼貞と共に足利尊氏に従って数々の軍功を挙げ現土岐市大富に住みしが、辺地なればと現岐阜市南長森に長森城を築き居住。
頼遠は功に募りて驕慢、1342年持明院(後光厳上皇)に無礼を働き断罪される。

第3代守護職土岐頼康は、土岐頼遠の後を継いで土岐惣領となる。
足利尊氏の命により信州・予州の平定、その軍功により美濃・尾張・伊勢の3ヶ国の守護職となりました。
長森城は所狭きをもって1353年6月、現岐阜市下川手に川手城築き移った。
別名革手府、土岐源氏の名声と実力は最高に至った。

この城は、旧木曽川と旧荒田川を改修し天然の地の利を活かした広大な地域で、七堂伽藍をもつ霊薬山正法寺・源氏の守護神八幡神社をはじめ神社仏閣、数多くの平屋建築城郭というより御殿風の建物だと推測されます。
以後、川手城は11代まで守護職の拠城となりました。

応仁の乱により都から逃げ延びた公家らが、当時の守護職で力のあった土岐氏を頼り川手に移住、これにより川手の地は都文化の花を咲かせることになったそうです。
当時その繁栄はかなりのものであり、西の山口(大内氏)東の川手と言われました。

しかし1494年、土岐氏の相続争いを発端とする船田の乱により、城は焼失しました。
後に再建されるが、1530年土岐氏を追放した斎藤道三公が稲葉山城に拠点を移したことにより廃城となりました。
城下町である川手(現岐阜市上川手、下川手)は廃城後も斎藤道三公等の加護で繁栄しました。
しかし、織田信長公の時代には川手の町は殆ど岐阜に移り衰退してしまいます。

廃城後も土塁等が残っていましたが、徳川家康の命により加納城の築城が開始されると、土塁の土は殆どが使われてしまいました。

現在は、済美高校の校内に石碑があり、当時の土塁の一部も残っています、城跡はこの済美高校の敷地と考えられています。

岐阜バス下川手バス停下車徒歩約5分
※取材時と内容が変更になっている場合がありますので、お出掛けの前に、詳細は電話にてご確認ください。

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