岐阜まちなか歩き

黷イ縁をぎゅぎゅっと
'15/04/21


 
結神社は、江戸時代までは結大明神と称していたそうです、明治36年(1903年)揖斐川の河川改修の為現在地へ移転、結神社に改められたそうです。
記録によれば、80代高倉天皇の嘉応(かおう)年間(1169〜1171年)に創建されたと伝えられていますが、一説には奈良時代より以前に創建されたともいわれているそうです。

祭神の3神は、我国の史書「古事記」の冒頭に「天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、高天原(たかまのはら)に成りし神の名は天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神。
この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)と成りまして、身を隠したまひき。」とあって、天地の初めに現れた神々で天之御中主神は、天の中央にあって、天地を主宰する神とされ、高御産巣日神・神産巣日神の2神は、万物の生産・生成を掌る神といわれています。

それで結神社 は、古くから「むすび」すなわち「生産の神」、ひいては「縁結びの神」「和合円満の神」として崇敬され、霊威ある神の坐す社、美濃国の歌枕(名所)として、多くの歌人に詠われてきました。
と町の説明があり、近年は縁結び、恋愛の神社として知られ、正月三が日は賑わっています。

結神社には、歌舞伎、浄瑠璃の演目「小栗判官照手姫」で有名な、照手姫と小栗判官小次郎助重の伝説が伝わっています。
永享〜嘉吉年間(1429年〜1446年)、照手姫は相模国から一時この地に逃れていました。
自分の守り本尊(黄金仏)の導きで結大明神にたどり着いたそうで、ここで7日間の願をかけ、満願の日結大明神が現れ、「そなたの願いを叶えよう、そなたの守り本尊はこの地に縁があり、こうして導かれたのである、この守り本尊をこの地に鎮座しなさい」と告げたそうです。

照手姫は、小栗判官小次郎助重と結ばれることを望み、結大明神に守り本尊を納めました。
やがてこの願いは叶えられたそうで、照手姫の守り本尊は結大明神に奉納され、十一面観世音菩薩の額に取り付けられました。
その後結神社に祭られていたが、結神社の移転に伴い別の場所で祭られることになります、現在は結神社の南約100mにある町屋観音堂に祭られているそうです。

結城址、高田二郎兵衛の館がここから南西約700メートルの地にあったとされています。
一説には、斎藤道三公の家臣で六人衆と呼ばれた大将格で重臣の日比野下野守清実(ウ冠に貫)が、天文年中(1532〜1555年)結城主として三千貫を領して住み、東結入方の津島神社の社殿や社領を寄贈したりしました。
永禄四年(1561年)五月織田信長公と森部で合戦し、大垣城主甲斐守衛安とともに討ち死にし斎藤軍は敗走しました。
この時の兵火で城や津島神社の社殿は消失しました。

織田信長公はこの結大明神を信仰しており、天正3年(1575年)長篠の戦いの際、7日間の戦勝祈願を行なっていました。

お守り取扱所は神社裏左の大平工業で取り扱っています。(平日のみ)

国道21号横屋交差点を南下約1km。
※取材時と内容が変更になっている場合がありますので、お出掛けの前に、詳細は電話にてご確認ください。

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