岐阜まちなか歩き

鼾イ吉大仏創設者の墓
'14/01/06


 
佐吉大仏のレポートで永田佐吉の墓があると書いたのがこの寺です。

曹洞宗真如山大雲院  本覚寺  
本尊、宝冠釈迦牟尼仏(毘盧遮那仏)

寺伝によるとこの寺は天台宗の寺院でありましたが永禄元年(1558)、正眼寺より玄沢祖栄を創建開山として招き、天台宗を曹洞宗に改宗。
その後、戦国時代の中戦乱が続き寺はしばらく衰微しましたが、天正8年(1580年)竹鼻城に不破源六広綱が入城し、城の改築と共に父・綱村(本覚寺殿大雲義沢大居士)のために、正眼寺(愛知県小牧市)より源経祖玄を招き、本覚寺を竹鼻城主の菩提寺として復興しました。
曹洞宗寺院としての歴史と伝統の礎を築いたのであります。

天正12年(1584)小牧長久手の戦いにおいて、広綱は織田方に味方し竹鼻城にこもり、秀吉は長久手での敗退の後織田方を小牧山城より引き寄せる為、竹鼻城を水攻めにし、城は落城する。
代わって岐阜城主織田秀信の家老杉浦五左衛門が竹鼻城へ入城、竹鼻城主の菩提寺として本覚寺を残し整備に尽力したのでありました。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いにおいて杉浦氏は西軍に味方し竹鼻城は落城、本覚寺も焼失、この寺は平地として数代を過ごすことになります。

鑑室長亀が住職となり元禄3年(1690)、正眼寺より乙先秀存を勧請開山とし本覚寺を復興する。
その後、水害・地震などで建物が崩壊することもあったが再建され今日に至っている。

この寺には、岐阜県重要文化財に指定されている雲龍の絵天井が本堂にあります。
この絵天井は中央に鏡を作りその全面を用いて極彩色の雲龍を描いた板絵であlり、東洋の龍は霊獣として神秘的な霊力の象徴として扱われ、芸術の好材料とされています。
ご存知のとおり伝え話にあるように、主に雨を降らす能力や進化系の最終様態とする説が有力であります。
この絵天井は龍の鱗(うろこ)や髭といった現代人がイメージする龍の全身をリアルに出しています。

岐阜県指定史跡として、永田佐吉の墓があります。

境内に200株に及ぶほどの牡丹があります。
4月の中旬頃からボタン祭りが開催され、羽島市の観光地のひとつとしていろいろな催しもあって、観光客で賑わいます。
他にヨガ・坐禅等の講座も開催されています。
横には、竹鼻稲荷大明神もあり。

場所は、名鉄竹鼻駅東へすぐのところ、線路沿いにあります。
※取材時と内容が変更になっている場合がありますので、お出掛けの前に、詳細は電話にてご確認ください。

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