岐阜まちなか歩き

黷、だつを上げられる人になりたい
'18/01/08


 
うだつの上がる町並みの、うだつとは一体何なのか?
本来は梁(うつばり)の上に立てる小さい柱のことをでしたが、自家と隣家との間の屋根を少し持ち上げた部分を”うだつ”と呼ぶようになりました。
日本建築の部分ですが平安時代くらいからあるそうです。

その後、隣家と接する切妻屋根の両端部分の壁を少し持ち上げ、独立した小屋根を乗せたものを「うだつ」と呼ぶようになりました(本うだつ)。
本うだつの下端が平側の1階屋根と2階屋根の間の部分にまで張り出すようになり、その壁部分が小さい防火壁として独立し、これも「うだつ」と呼ぶようになりました(袖うだつ)。

町屋が隣り合い連続して建てられている場合に隣家からの火事が燃え移るのを防ぐための防火壁として造られたものだが、江戸時代中期頃になると装飾的な意味に重きが置かれるようになります。
自己の財力を誇示するための手段として当時の豪商たちがその富を競い合うようにそれぞれに立派なうだつを設けました。

うだつを上げるためにはそれなりの出費が必要だったことから、比較的裕福な家に限られていた。
これが、生活や地位が向上しない・状態が今ひとつ良くない・見栄えがしない、という意味の慣用句うだつが上がらないの語源のひとつと考えられています。

この町並みは、上有知(こうずち)と言い、飛騨高山の町を造った金森長近によって関ヶ原の戦い(1600年)の後に造られました。
城下町上有知は、小倉山城東方に一番町・二番町の二本の筋を造り、それを結ぶ四本の横町によって目の字型となっています。
長近は長良川畔に上有知湊を造り岐阜・桑名方面と郡上・飛騨方面との交易を盛んにし、中濃屈指の物流の拠点としました。

金森氏は在城わずか10年ほどで断絶しましたが、長近の意図した町づくりは大きな成果を残し、物資集散の中心地として繁栄しました。
特に町を富裕にしたのが美濃和紙の取引です。
板取川流域で漉かれた美濃和紙は、評価が高く全国に流通しました、それが現在世界遺産となってます。

現在も残る江戸明治に造られた豪商の民家は、大部分が紙商であったようで紙で富をなした家が多かったことを推測できます。

特徴のあるうだつ
小坂家住宅うだつ
鬼瓦を持たないうだつ軒飾りというのは珍しく小坂家だけの特徴です、とりぶすま、二枚の破風瓦、簡素な懸魚で構成されています。

松久家住宅うだつ
旧今井家のうだつより少し発達したうだつ軒飾りです、屋号を表す鬼瓦が少し立派になり、破風瓦の下に簡素な懸魚もついています。

加藤家住宅うだつ
破風瓦が人という字ではなく、傘形となっていて、懸魚があっさりとしていて調和のとれたデザインとなっています。

平田家、古川家うだつ
最も新しい形式の軒飾りとして、明治の初期につくられました、他の軒飾りと比べ一段と装飾的にデザインされ豪華です。

JR岐阜駅からJR高山本線 美濃太田駅まで25分乗換、長良川鉄道 美濃市駅まで30分です。
※取材時と内容が変更になっている場合がありますので、お出掛けの前に、詳細は電話にてご確認ください。

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