岐阜まちなか歩き

齟山道に全国に誇れる天台宗の名刹
'17/12/11


 
中山道御嶽宿を歩いていたら凄いお寺に遭遇しました。

願興寺の草創は寺の伝えによれば、弘仁6年(815)に天台宗の開祖伝教大師(最澄)が東国布教及び修行のため行脚しこの地で留められました。
布施屋(ふせや)を造り、自生していた桜の枯木で薬師如来を彫刻安置し、仏の教えを説き人々を救済したことが願興寺のはじめとされています。

考古学的な知見で願興寺境内から出土する古代瓦、とくに鐙瓦(あぶみがわら「軒丸瓦」ともいう)から見るに、既に草庵的布施屋が建立されていたとされる時期よりおよそ100年以上その歴史は遡(さかのぼ)り、草庵ではなく伽藍(僧侶が修行する場)が整備されていたことが判明されているそうです。

正暦4年(993)に、一条天皇の皇女とされる行智尼がこの地に庵を結んだ。
ある時、庵の近くの池に数千の小蟹に乗った薬師如来像が現出し、この奇瑞を聞いた一乗天皇の勅願により、長徳4年(998)に伽藍が整備されたといわれています。
本堂はもとより塔・講堂・諸堂宇が整備され、東美濃一円から信仰を集める寺院として隆盛を極めていくこととなりました。

天仁元年(1108)9月19日、兵火により願興寺の本堂・諸堂全てが灰になりました。
翌年、願興寺を金日坊なる願興寺の塔頭(脇寺の住職)が、せめて本尊を安置できる本堂だけでも復興をとの思いで、比叡山から俊増法師を招き、遠近の人々に呼びかけ本堂が再建されました。

そして戦国動乱の時代になり、再び戦火に巻き込まれることとなりました。
元亀3年(1572)、甲斐国を拠点とした武田信玄が東濃地方に侵攻、諸所に放火し当山も炎上しました。

願興寺はしばらく焼け落ちたままの姿で放置されていましたが、地元の人々により日ごろからお薬師様・大寺さんと言って親しまれ、信仰の拠点となっていた願興寺の惨状は庶民の心に大きな傷を残しました。

天正3年(1575)地元の玉置与次郎とその義兄市場左衛門太郎とが一念発起し、願興寺の再建に乗り出しました、地域の一庶民の薬師に対する信仰心のみでの復興が始まることとなったのです。

困難を極めたのですが、やはり彼らと思いを一にする民衆は多く、提供でき得るもの建設への労働力や食糧の提供であったりと、様々な形で力が集結され、天正9年(1581)、遂に再建事業を成し遂げたそうです。

本堂自体は県内でも他に類例を見ない大きな建物で非常に立派な本堂ですが、民衆の力によって建立されたものである特徴が建物の随所に見ることができます。
本堂正面と背面の造りが著しく違うということです、正面は立派な体裁を整え、背面はなんら装飾も無い造りとなっていること、また、部材も様々で欅あり松ありと不一致になっています。
加えて曲がりくねった柱材の使用という点が代表的な例です、これは財力も無い民衆の努力であり、何とか自分たちを庇護してくれているお薬師様に報いようと言う思いの結晶でしょうか。

願興寺本堂の平面構成にも特徴があり、本堂を構成する柱一間分の外周が回廊となっている点であります、学術的にはその構成を「四周一間通り」と言うそうです。

要文化財として、願興寺本堂天正9年(1581年)建立、木造薬師如来及び両脇侍像、木造阿弥陀如来立像、木造阿弥陀如来坐像、木造釈迦如来及び両脇侍像、木造四天王立像、木造十二神将立像があります。
その他、岐阜県指定重要文化財・御嵩町指定重要文化財など貴重な文化財が多々あります。

名鉄広見線御嵩駅より徒歩約5分、と言うか駅前です。
※取材時と内容が変更になっている場合がありますので、お出掛けの前に、詳細は電話にてご確認ください。

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