岐阜まちなか歩き

齟山道57番目の宿場?
'16/06/30


 
中山道六十九次のうち57番目の宿場、垂井宿。
南宮大社の門前町として賑わっていました垂井宿は、中山道と東海道を結ぶ美濃路との追分宿としても賑わっていました。

JR垂井駅より北へ数分で中山道に出ます。
相川に架かる相川橋の所に東の見付があります、垂井宿の東の端です。
東の見付、宿場の入口におかれ宿の役人は、大名の行列を迎えたり非常時には閉鎖したりしました。
ここから776メートルにわたり垂井宿となります。

橋から下り右にカーブして街の中に入ります。
すぐ左に紙屋小路があり入っていくと紙屋塚があります、垂井には官設抄紙場とも言える紙屋があり、美濃紙発祥の地と言われているそうです。

紙屋塚から中山道へ戻り西へ150mほどで街道は枡形に曲がります、いわゆるカクカクに曲がる所です。
そこに江戸時代からの旅籠が残っています、旅籠亀丸屋、垂井宿の旅籠屋として200年以上続き、今も旅館を営んでいます。
建物は安永6年(1777)に建てられたもので、内部はなるべく手を加えず、当時のままにしてあるのだそうです。
当時は南側に入口があり、二階南側の鉄砲窓・格子部屋の欄間・廊下の鴬張り、などが残る珍しい造りだそうです。
乱取格子は引き戸になっており、火災の際は此処から逃げられるようになっていました。

亀丸屋のちょっと先、格子戸の民家は問屋場跡です。
金岩家が務め、問屋以外にも相川の人足渡しの手配もしていました、代々彌一右衛門を名乗っていたそうです。

その先、歯医者駐車場の横に本陣跡碑が建てられています。
本陣を務めたのは栗田家であったが、178坪の本陣建物は安永9年(1780)に焼失して、再建された建物は残念ながら明治期に解体されたそうです。

本陣裏側(南)本陣跡井戸が残っています、現在もいかなる日照りにも涸れることなく使われtりるそうです。

垂井宿は、幕府領(大垣藩預り領)1843年(天保14年)に人口1179人・家数315軒・本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠27軒あったそうです。

これから西の見付までは?に続きます。
※取材時と内容が変更になっている場合がありますので、お出掛けの前に、詳細は電話にてご確認ください。

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