岐阜まちなか歩き

鼬R師半兵衛
'16/03/17


 
竹中半兵衛の菩提寺、禅幢寺(ぜんどうじ)山号は普賢山、宗派は曹洞宗です。
禅幢寺は、明応三年(1494)薩州金幢寺の僧正碩和尚が開基しました。
竹中半兵衛重治像(画)町指定文化財があります。

豊臣秀吉の軍師として活躍した竹中半兵衛重治は、天正七年(1579)播州三木の陣で病没。
当寺の重治の墓は、天正十五年(1587)父の菩提を弔おうと長男重松が三木から移葬したものです。
現在の本堂は、重治の孫の重常が寛文三年(1663)に建立したもので、平成二十三年六月に町指定建造物となりました。
また当寺には、昭和三六年四月に町指定絵画になった竹中半兵衛重治像があります、と寺に書かれていました。

正碩和尚とは薩摩の国(鹿児島県)金鐘寺の和尚で当地に来て開基となりました。
永禄元年(1558)竹中氏が六千貫の領主となり、竹中半兵衛重治は父重元と共に菩提山に城を築きました。
播州三木の陣において行年36歳の若さで病没した半兵衛重治の菩提を弔うために、その子重門がこの寺に墓を移しました。
今では竹中氏とその家臣の菩提寺となっています。

岐阜県・垂井町といえば関ケ原の戦いで池田輝政が布陣した所です。
禅幢寺には西軍として参戦した小西行長のお墓もあります。(供養碑)
小西行長は竹中重門の家臣である伊藤源左衛門・山田杢之丞が丁寧に扱い、護衛しながら陣へと連れていかれその後、六条河原で石田三成・安国寺恵瓊と共に斬首されました。

六条河原で処刑され、遺体をカトリック式に埋葬されましたが、首を重門の家臣が密かに持ち帰り明泉寺の裏山に埋葬したと伝わっています。
こちらに墓があって、禅幢寺にも墓があるのは、昭和のはじめに竹中重門重臣の末裔石河氏の子供が8人育たなかったことがありました。
石河の先祖は竹中重門に従って小西行長を捕らえたことがあり、これは小西行長の祟りなのではないかと思いました。
疑惑を持った石河氏が供養のために墓を建立したところ、9人目の子供は順調に育ちました。

垂井駅より北西にあり、竹中半兵衛陣屋跡より北に行き、東海道線を超えたところにあります。
※取材時と内容が変更になっている場合がありますので、お出掛けの前に、詳細は電話にてご確認ください。

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