岐阜まちなか歩き

鼾ナ初の女優の墓
'16/01/11


 
貞照寺、真言宗智山派の寺院で、山号は成田山(なりたさん)東海三十六不動尊第三十礼場にもなっています。
この寺は日本最初の女優である川上貞奴が、私財で建立したものです。
本尊は不動明王で、川上貞奴は幼少の頃から成田山を信仰していたと言われています。

1871年(明治4年)に小山久次郎、タカとの間に産まれ名、小山貞とつけられました。
生家の没落により、7歳の時に芸妓置屋「浜田屋」の女将、浜田屋亀吉の養女となります。
伝統ある「奴」名をもらい貞奴を襲名、芸妓としてお座敷にあがる。

日舞の技芸に秀でていて、才色兼備の誉れが高かった貞奴は、時の総理伊藤博文など名立たる人から贔屓にされ、名実共に日本一の芸妓となりました。
1894年(明治27年)に「オッペケペー節」で有名な川上音二郎と結婚する。

1899年(明治32年)に演劇改革運動を進める音二郎と背水の陣で渡米し、その後、仏、英、ロシアでの公演で貞奴の芸名にて初舞台を踏み、マダム貞奴と称され絶賛を受ける。
その人気は音二郎を追い越すほどで、2年後の再渡欧では、東洋のドゥーゼ(世界的名声を博したイタリアの女優とまでいわれ、その姿をピカソも描いたほどです。
パリの社交界にデビューした貞奴の影響で、キモノ風の「ヤッコドレス」が流行、フランス政府からは演技を絶賛しオフィシェ・ダ・アカデミー勲章が贈られました。

1908年(明治41年)後進の女優を育成するため、音二郎とともに東京・芝に帝国女優養成所を設立した。
1911年(明治44年)音二郎死去遺志を継ぎ公演活動を続けるも、演劇界やマスコミの攻撃が激化する。
ほどなく貞奴は大々的な引退興行を行い、日本の近代女優第一号として舞台から退くこととなる。

名古屋大曽根に、輸出向け最上級の絹を生産販売する川上絹布株式会社を設立する。
名古屋に居を構え、旧知の仲である福沢桃介の事業パートナーとして共に生活をしました。
桃介が東京へ戻ると、貞奴も拠点は東京へ移すものの暫くは東京と名古屋を行き来する生活を送ります。

1933年(昭和8年)に岐阜県鵜沼に私財を投じて貞照寺を建立。
東京と鵜沼を行き来して生活を送り、1946年(昭和21年)熱海の別荘で死去、死後はこの貞照寺に埋葬されました、享年76歳。

本堂・庫裏・書院・鐘楼・門・宝物倉・稲荷堂・浄水舎が登録有形文化財となっています。
貞奴の墓は本堂の裏手にあります。

高山本線鵜沼駅、名古屋鉄道各務原線犬山線新鵜沼駅より約2km。
※取材時と内容が変更になっている場合がありますので、お出掛けの前に、詳細は電話にてご確認ください。

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