岐阜まちなか歩き

齡q観は固く御断り致します
'15/10/16


 
瑞龍寺は岐阜市の市街地中央に位置しています。
金華山の南に連なる瑞龍寺山を背景に、参道をはさんで白塀に囲まれた塔頭六ヶ寺があり、一番奥にある雲水の修行道場であります。

前にレポートしましたが、前回入れなっかたところに入り追加レポートとなります。

日頃は修行道場であり、一般の拝観はできません。
梅林公園の梅まつりには一般公開され、その他は申し込んで許可を取るかです。

土岐成頼(ときしげより)斎藤妙椿(さいとうみょうちん)の墓があります。

土岐成頼の墓は、瑞龍寺本堂の西側山麓にあります。
墓は、家臣であった斎藤妙椿の墓と並んでいます。
墓のサイズは2.7m四方で高さ1.1mの石垣で囲まれてます、墓石は無くわずかに60cmの土盛りがあります。

土岐成頼は、康正2年(1456)15才で家督を相続し、左京大夫美濃守に叙せられました。
応仁元年(1467)山名・細川両党が争い、京都の治安が乱れると成頼は西軍山名宗全に従い9月に兵8千余を率いて上洛した、この応仁の乱において成頼は西軍の重臣として活躍しました。
文明5年(1473)山名宗全と細川勝元が死去し、文明9年(1477)に応仁の乱が終息すると、成頼も帰国しました。

その後明応4年(1495)土岐氏も継嗣問題から船田合戦が起こり、成頼は守護代斎藤妙純らに敗れ剃髪して宗安と称し、方県郡城田館に隠居しました。
翌年4月3日、56才で没し、瑞龍寺に葬られ、法名は瑞龍寺殿国文宗安であります。

斎藤妙椿は弟越前守利藤と共に、守護土岐成頼に仕えて執権となり加納城に居住しました。
利藤の子新四郎利国を養子に迎え、自らは革手城の近くに持是院を建てて住み、持是院大年妙椿と号した。

宝徳2年(1450)今泉に日蓮宗常在寺を建て、また応仁元年(1467)上加納に臨済宗瑞龍寺を建立し悟溪宗頓を招いて開山しました。
郡上郡篠脇城にいた東常縁が、郷国下総の乱に馳せ参じたすきに、妙椿は篠脇を攻めて占領し、更に不破郡今須の長江氏を討って滅ぼし勢力を拡張しました。

歌人でもあった妙椿は、のち常縁の和歌「あるがうちに斯かる世をしも見たりけり、人の昔のなほも恋しき」に感じ、郡上の地を常縁に返還したことは世に知られています。
文明12年(1480)2月21日70才で没し、瑞龍寺の成頼墓の右側に葬られました。
(教育委員会社会教育文化課調べ)

岐阜バス「竜田町」バス停下車徒歩5分ですが、柳ケ瀬より歩かれても10分程度です。
※取材時と内容が変更になっている場合がありますので、お出掛けの前に、詳細は電話にてご確認ください。

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