岐阜まちなか歩き

黷ヲっ大化の改新
'15/05/08


 
高速道路近くに盛り上がった小さな丘に歴史上の人物の墓がありました。

蘇我倉山田石川麻呂って誰?そしてどう読むの、と思われた方も多いでしょう。
そがのくらやまだいしかわまろ、と読みます。

伝蘇我倉山田石川麻呂の墓(でんそがのくらやまだいしかわまろのはか)とは、岐阜県各務原市蘇原宮塚町にある史跡で蘇我倉山田石川麻呂の墓と伝伝えられています、1972年(昭和47年)には市の史跡指定を受けています。
蘇我倉山田石川麻呂は蘇我馬子の孫で、歴史の教科書に必ず出てくる大化の改新(645年)後に右大臣を務めた人物であります。
この各務原蘇原地区には、当時の都である奈良地方と共通する地名や寺名があるとともに、この宮塚の丘を蘇我倉山田石川麻呂の墓とする伝承が存在しています。
また、大阪府太子町の仏陀寺古墳(府指定史跡)も蘇我倉山田石川麻呂の墓と伝えられているそうです。

蘇我馬子など日本書紀や古事記に出てくる人物です、その孫にあたる蘇我倉山田石川麻呂も歴史上重要な人物だったのですね。
蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟に当たります、兄弟に日向・赤兄・連子・果安がいます。

ご存知のように大化の改新は、飛鳥時代の孝徳天皇2年(大化2年)春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔に基づく政治的改革です。
中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした乙巳の変の後に行われたとされる(この暗殺事件もまとめて大化の改新と呼ぶこともあります、このイメージの方が強いかも)。
首都を飛鳥から難波宮(現在の大阪市中央区)に移し、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移変わった。
また大化は日本最初の元号であります。

皇極天皇4年(645年)、中大兄皇子が中臣鎌足と共謀して入鹿の誅殺をはかった時に(乙巳の変)、暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げたのが蘇我倉山田石川麻呂でした。

その後、改新政府において右大臣に任命される。
大化5年(649年)、異母弟の日向に石川麻呂が謀反を起こそうとしていると密告される。
孝徳天皇により派遣された穂積咋が兵を率いて山田寺を包囲したため、長男の興志ら妻子と共に山田寺で自害した。
この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされている。

帯解黄金塚陵墓参考地は舎人親王の陵墓とされていたが、2009年の発掘調査でそれよりも古い推古天皇から舒明天皇の時代のものとわかり、石川麻呂の墓所ではとの説があります。
するとこの地の墓は蘇我倉山田石川麻呂とはどのような関係にあるのでしょうか。
歴史ロマンが隠されていつのでしょうか。
※取材時と内容が変更になっている場合がありますので、お出掛けの前に、詳細は電話にてご確認ください。

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