岐阜まちなか歩き

鼬ァ指定史跡を訪ねて、霊松院
'15/01/28


 
岐阜市岩崎3丁目にある霊松院(れいしょういん)は臨済宗妙心寺派で本尊は正観世音菩薩です。

ここには岐阜県指定史跡、宝暦治水工事義歿者墓(ほうれきちすいこうじぎぼつしゃはか)があります。
岐阜市教育委員会の案内板によりますと、
多良陣屋高木新兵衛の家臣内藤十左衛門の墓 である。
宝暦五年(1755)三月下旬木曽、揖斐、長良の三川治水工事が完成したが、工事施工の責任をとって割腹自害した義歿者は、総奉行平田靱負以下数十名に及び、同四年四月二十二日、 工事半ばにして自害した内藤十左衛門もその一人であった。
宝暦治水工事の築堤工事を監督をしたのが、 多良の高木家と笠松郡代青木次郎九郎であった。

内藤十左衛門は、高木新兵衛の家臣で、尾張梶原村から伊勢田代輪中に至る区域の工事を担当 し、桑名郡五明村詰所に派遣された。
十左衛門は築堤工事を監督していたが、同村 の庄屋与次兵衛は命令に従わなかった。
おそらく検査の時に築堤工事の不備が指摘されて、主人高木新兵衛にまで責任が及ぶと考え、その責任を一身に負って自害したことが、青木次郎九 郎の聞取書によってわかる。
十左衛門は、元岩崎陣屋の役人であり、また霊松院の信徒でもあったため、この地に葬られたと伝えられている。
とあります。

宝暦治水とは、
岐阜県において伊勢湾に注ぐ木曽三川、木曽川・長良川・揖斐川は、大雨が降ると氾濫して周囲に大きな被害をもたらしていました。
1753年江戸幕府は、この三川の治水工事を九州の薩摩藩に命じました。
江戸幕府は外様大名に対して、たびたびこのような命令を出しました、大な費用と労働力を負担させて力を弱めさせようとしたのです。
この土木事業は、お手伝い普請(ぶしん)と呼ばれました。
薩摩藩が命じられた木曽川・長良川・揖斐川の治水工事は、完了までに1年2か月もかかりました、40万両現在の金額に換算すると200億円を越える費用と80人以上の犠牲者を伴い、薩摩藩に大きな打撃を与えたました。
長良川と揖斐川を隔てる堤防の上には松並木が連なっています、治水工事の完成を記念して薩摩藩士たちの手で植えられた松が強く根を張り、今も堤防を守っているのです。

この治水工事で流域に住む人々は、洪水に苦しむことが少なくなったことを喜び、工事に従事した薩摩藩士を「薩摩義士」と敬い、その偉業をたたえました。
その精神的な絆をもとに、岐阜県と鹿児島県は、昭和46年7月27日に姉妹県盟約を結びました。

JR岐阜駅より高富方面行き、約30分上岩崎下車徒歩約10分です。
※取材時と内容が変更になっている場合がありますので、お出掛けの前に、詳細は電話にてご確認ください。

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