岐阜まちなか歩き

齊q宝に恵まれる
'13/02/20


 
子安神社、中山道赤坂宿に来た時、たまたま寄った神社、結構有名なところでした。

中山道から北へ金生山の方向へ、坂道を登っていくとここはあります。

神社にある案内板には
子安神社由緒
この神社は神功皇后・応神天皇の二柱を奉祀し往古より安産の神として遠近の崇啓あつく殊に大垣領主戸田家の帰依は深く、現在の社殿は同家の寄進による。
霊験により境内の竹を以て御産刀を作るを常とす、三代将軍徳川家光公も此の由を聞し召され戸田家に命じ代々御産刀を献ぜしめらる。
大正14年11月以来皇室御慶事の際は前後8回に亘りお守り・御産刀を奉献し又近くは昭和35年2月10日皇太子妃美智子殿下の御安産祈願祭執行し、お守り・御産刀を奉献御喜納をあらせられたり、氏子は勿論崇啓者は必ず安産を祈り、霊験の顕著なるに感泣せり。
又境内には神功皇后の鞍掛石(股ぎ石)あり子を欲する者是を股ぎ祈願すれば授子の霊験あり。
と、あります。

いつから有るとは書いてなくて、岐阜県の神社庁のホームページによると
創祀不詳であるが、初めて史籍に見えたのは、三代実録に貞観十八年七月十一日、授美濃國正六位上児安神社従五位下とあるのが最も古く、美濃國神明帳の出来た天暦の頃には不破郡八十二社の内正二位児安大明神とあり。
年次を追って授位された由緒ある神社である。
とあって、難しい言葉でよく分かりません。

また、平治物語に佐藤重成が義朝に代わりて子安の森にて討死云々とあり、とあってそのゆかりの神社らしいです。
とはいえ、平治物語がよく分かりません。

平治物語は平治の乱の顛末を描いた軍記物語、作者不詳で平治元年(1159)、後白河上皇方最大の武力勢力であった平清盛が熊野参詣に出かけた隙を狙って、かねてから藤原通憲(信西)と後白河の寵愛をめぐって権力争いを起こしていた藤原信頼が、保元の乱での賞与などで平家の圧迫に不満を覚えていた源義朝を語らって挙兵する。
上皇を大内裏で監禁、通憲を殺害し一度は権勢を握るものの熊野から引き返した平清盛に敗れ、信頼は処刑、義朝も暗殺される。
以降、平家政権の全盛や没落、鎌倉幕府の成立などまでを描いた諸本も多いと、ウィキペディアに書いてあります。

平治物語が作られた時期については諸説が有りますが、遅くとも1239年までには成立していたであろうと推測されています。
従って「平家物語」の成立時期とほぼ同時期ですが、「平治物語」が先に作られたという説が有力だそうです、その物語にここが出ています。

案内文に書かれていた鞍掛石、またぎ石という大きい碑も出来ていて、乗り方があります。
拝殿に向かって跨ぎます。
ご夫婦で訪れ、1回目は奥様、2回目が旦那様、3回目はご夫婦で同時に跨ぐ。
最後にお二人で神様に拝礼します、となっています。

子宝に恵まれない方がお参りに訪れているそうです。

中山道脇本陣跡を西に行って、所郁太郎誕生地の碑を北に入ります。
※取材時と内容が変更になっている場合がありますので、お出掛けの前に、詳細は電話にてご確認ください。

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