岐阜まちなか歩き

皷eを慕いて
'12/11/09


 
「影を慕いて」この題名でピンと来た人は、昭和の人ですね。
昭和7年に古賀政男が作詞作曲した作品です、古賀政男は国民栄誉賞受賞者でもあります。

なんで、影を慕いてが岐阜に関係しているのかと言うと、この歌のモデルとなった女性がこの地、岐阜の日野の住民であったからです。
明治41年11月13日生まれの藤沢浪子と言う女性、昭和4・5年頃神奈川県の鶴巻小学校前で姉夫婦が経営する下宿屋の手伝いをしていた時、まだ名前も知られていなかった古賀政男が住むようになり、二人は恋しあう仲になりました。
ある日古賀政男は姉を通じて求婚をしました、しかし何を思ったのか姉は彼女を鎌倉の名士の別荘へ電話番として追いやり、二人の仲を引き裂いてしまいました。

この歌を歌った、藤山一郎は古賀政男の死後ラジオ対談で「先生は下宿の女の人をよほど気に入ってたのであろう」と話したこともあるそうです。
ここにある碑を建てた時、藤沢浪子は86歳でしたが年齢を感じさせない程の若さと美貌の持ち主で、彼を悩ませたのも無理はないと刻み込められています。

不動院は天台宗の密教寺院で、別称「不動閣」と言います。
本尊の波切不動明王ほか、白寿観音、白龍大明神、金華山戦死者の霊ほか諸仏をお祀りしているそうです。
奈良時代、奈良東大寺の大仏を作った仏師、日野金麻呂(ひのきんまろ)(護国之寺参照)がここで生まれたと言われ、大仏の開眼法要のとき金銅獅子唐草仏鉢を聖武天皇から授かり持ち帰り、ここに七堂伽藍を建て安置したと伝えられています。
日当たりの良いところへ越したいと言うお告げがあり、後に護国之寺に移ったと伝わってるそうです。

戦国時代織田信長公は稲葉山城を攻略しましたが、城は難攻不落三方堅固で攻め倦んだとき、木下藤吉郎が長良川の北から城を望み背後の日野西山より峰伝いに進行することを思いつき、落城させましたが登山口となったこの寺は焼き払われてしまいました。
西山の 不動の洞をよじ登り 旗なびかせて 城攻略す
という歌が伝えられています。 
境内から峰伝いに城へ続く登山道があります、遠い昔の武者たちの光景が思いおこされます。

昭和9年比叡山に居た不動院第一世、祥海和尚は、前住していた神宮寺の本尊・波切不動明王の霊夢を見て、荒廃していたこの地を探し求めて護摩堂と庫裏を建立し中興開山されましたが昭和30年12月28日に参拝者のローソクより失火し本堂は焼失してしまいました。
土砂で埋まっていた洞窟の一つを開墾していると地面より御光が差し、そこを掘ると身の丈2cmの金の観音様が姿をあらわしました、これを胎内仏とし白寿観音と命名し窟でお祀りしているそうです。

他にも布目瓦・五輪塔・刀・仏具など数多くの物が出土し、平成13年の発掘調査では鎌倉時代の墓郡、奈良時代の布目瓦を焼いた釜跡ほかが見つかり、不動洞遺跡に指定されました。
境内には落差30mの不動の滝があり、雨のとき滝にうたれる不動明王石像のお姿は絶景です。
(寺院由来等は不動閣HPによる)

レポートにも各コース書きましたが、金華山は手軽にハイキングが楽しめる山として好まれてます。
金華山登山道マップにはこのコースは書かれていませんが、多くの登山者がこのコースを歩いています。
不動閣の奥の院から東回峰道(ひがしかいほうどう)→西山尾根道→岐阜城(約3km)へと続くコースです。
金華山登山する場合は、他のコース同様、法律マナーを守って登ってください。
※取材時と内容が変更になっている場合がありますので、お出掛けの前に、詳細は電話にてご確認ください。

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